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パラオで活躍するJICAボランティア
◆パラオからAlii!(こんにちは)
JICA ボランティア 石田保夫
私は、マルキョクにあるパラオ財務省統計室で、統計業務に従事しています。任期は2013年10月-2015年9月です。
島国パラオは外国との結びつきが強い国際国家ですので、パラオの統計によりその一端を明らかにし、次いで、SVとしてどんな統計活動をしたかを簡単に記述します。
最後に、首都マルキョクのあるバベルダオブ島には、日本統治時代に日本人の農業開拓村がいくつか設置されていました。その開拓農家の生活の一端を、文献資料、パラオ人からの伝聞、及び私が週末に探訪してきた体験に基づき、記述しました。
1. 統計からみた国際国家:パラオ
(1)人口
人口は2012年ミニセンサスの結果によれば、パラオ全体で17,501人, コロール州の人口は全体の3分の2に相当する11,665人、首都のマルキョク州の人口は1.7%の299人である。2005年センサスの人口は19,907であったから、2,406人12.1%の減少である。この人口減少は、出生率は2012年2.2人(石田試算)で2005年の2.02人に比べむしろ増加気味であるから、人口の国外流出(外国人労働者の減少又はパラオ人自身の海外移住、又はその両方)が主因である。
(2)労働
社会保障局の統計によれば、全就業者数は2012年で10,791人で、就労許可を得て働いている外国人は、2012年3,694人で全就業者数の34.2%を占め、3割強が外国人労働者である。ちなみに、2,621人がフィリッピン人で外国人労働者の71%を占めている。
(3)観光
2014年度の外国からの観光客総数は、124,785人で、彼らが滞在中に使ったお金の全体額はGDPの54%に達する。ホテル、レストラン、ツアー会社、土産品店などの観光産業がパラオの経済を支えている。ちなみに日本の観光客支出額はGDPの1%に過ぎない。
(4)財政
2012年度政府収入9千7百万ドルのうち、税収入は3千7百万、外国からの贈与が4千8百万で、外国からの贈与が全体の50%を占めている。

2. シニアボランティアとしての統計活動
(1)観光統計の分析
観光客がパラオ滞在中にどのくらいのお金を使うかは、パラオ経済にとって大変重要でありGNPやBOPの推計にとっても欠かすことはできないデータである。南太平洋観光機構がパラオ観光庁を通じて、2014年にパラオ観光客調査(PTS)を実施し、観光客一人当たり1日の支出額を公表した。この結果は、財務省がBOPやGDP推計に従来から使用しているデータに比べ相当高く、今後BOPやGDPの推計の使用に耐え得るかどうかについて、分析した。PTSの結果には、異常に高額の支出(一泊一人の宿泊費2,500ドルなど)が多く含まれていることがわかり、統計的手法を使ってこうした異常値を排除して旅行者一人当たり1日の支出額を再計算してみると、40ドル近く下がり、これを用いるならば、これまでのデータとのかい離は調整可能であることから、使用に耐え得るとしてその旨進言した。
(2)標本調査の実務に掛かる研修
センサスと標本調査は、調査によって統計を提供する車の両輪である。対象となる世帯、個人、事業所などをすべて調査して統計を作るのがセンサスであり、このセンサスで得られる対象リストを基に統計的確率理論と決められた実務手法により、一部を抽出して調査し、全体を推定した統計を提供するのが標本調査である。標本調査は、方法さえ誤らなければ、正確なデータをタイムリーにかつ頻度多く提供できるから、政府統計の重要なツールである。標本抽出の統計理論は重要であるが、この理論をいかに効果的に実務に適用して、調査を行い全体を推計するかという実作業に長けることが欠かせない。
そこで、「標本調査の理論と実務」に関するセミナーを、次に述べる労働力調査と抱き合わせて今年7月末又は8月初めに開くこととした。
(3)労働力調査の企画設計
労働力は、企業などの経済活動の原動力であるとともに世帯の生活の源泉である。パラオにはこの労働力に関する調査統計としては、5年ごとのセンサスデータと社会保障局などによる、部門別就業者数などの限定された毎年の業務統計があるのみである。労働政策上必要な、雇用失業の実態、労働移動、潜在失業、外国人労働者の実態などの詳細な統計が欠けている。そこで、センサスの中間年に定期的に実施する労働力調査を企画設計することとした。確率標本調査であるため、センサスからえられる標本フレームが不可欠で、したがって2015年センサスのあと2016年に実施することを前提に、調査の概要、調査票、調査の手引などの主要書類を作成した。これについては、当職の任務終了後でも実施できるよう、セミナーを開催することにしている。
(4)その他
パラオ若者政策評価調査の企画設計の支援、統計年鑑の編集についての助言等を行った。
3. 日本統治時代における開拓農家の生活
(1)開拓村への入植
1919年に国際連盟からの委任統治が始まったあと、パラオに設置された南洋庁が中心となって、1924年から、バベルダオブ島における農業開拓のための造成計画が進められ、ガルドック川流域に清水村、ガルミスカン川流域に朝日村、ガバドール川流域に大和村、アイライ村(当時。 現在のアイライ州西部)に瑞穂村の4つの開拓村が設置された。最初の入植は1926年で朝日村に8戸が入った。その後、入植者は増え1940年には、4村合計で、376戸、2,021人に増えた。1戸は、夫婦あるいは又は夫婦と幼い子の家族から成り、助け合って入植作業ができるよう数家族のグループで入植し、1戸当たり5町歩(約5Ha)が割り当てられた。
入植当初は、現地パラオ人のアバイに寄宿し、タロイモなどの食料の提供(無料で)を受けつつ、まず、住家を、共同作業により、ニッパヤシの屋根、竹の床など応急的な住みかを建設するとともに、ジャングルの木を伐採・抜根して、荒れ地を切り開き、開墾した。まずは、成長の早く手入れのいらないサツマイモの栽培から始めた。入植して3か月経つと作物を現地の人にお返しに提供できるようになった、との話がパラオ人の間に残っている。
(2)経済生活
その後、南洋庁熱帯産業研究所の指導を受けかつ国策会社南洋拓殖株式会社と連携を図りつつ、土壌の性質等を考慮して、パイナップル、サトウキビ、キャッサバ、サツマイモ、蔬菜類等を作付けし収穫した。中には、東南アジアから持ち込んだランブータンやマンゴスチンを栽培する農家もあった。
こうした生産物を、自家消費もしつつ、村の中に設置された「集荷所」を通じて、パイナップル缶詰工場、製糖工場、デンプン工場、コロール市場などに出荷し、現金収入を得ていた。また、日用物資などは、村の中に置かれた「店」を通じて日本から運ばれる米、みそ、醬油などの食品のほか日用品などを購入して生活していた。日本の家族からの手紙などもこの「店」を通じて得ていた。
入植者の生活は、決して豊かではなかったが、貧しくもなく、必要な物資等は手に入る不自由のない生活をしていた。
(3)住居と生活
次第に開拓生活が安定してきて、終戦まで住むことになる、日本家屋らしい住居に立て替えられた。
新たな住居は、湿気や豪雨の跳ね返りなどを防ぐため、約50センチほどの高床式となっていて、その土台は、固い材質の丸太でできていた。玄関には、2、3段のはしご段がついていた。
屋根は、木の板あるいはトタン、壁は木の板又はトタンで、床は木の板でできていた。ガラスの窓も付けられていた。布団に就寝し、蚊帳は必需品であったに違いないが、使っていない家もあったようだ。
家は、生活用水の確保のため、各村を流れている主流あるいはその支流に沿って建てられた。飲料水は、共同の井戸を掘り、これを使っていた。食べ物は、タロ、サツマイモなどの芋類が主食で、週に1度程度の米食、野菜は自家製というのが標準のようであった。うどんも、小麦粉から、竹の麺棒を使って作っていた。蛋白源は、保存が効くよう、コロールの工場で生産されたカツオブシであった。
(4)交通
村内の各戸を結ぶ道路は、共同作業で作られ、ビンロージュの木を輪切りにした板が、敷かれていた。深く切り立った崖の下を水量多く流れている村内の川には、川を挟んで住んでいた各戸の往来や小学校への通学等のため、2,3本の丸木の橋が作られていた。
当時の首都コロールと開拓村との交通・物資の運搬は、村内の川に設置された船泊あるいは波止場まで、コロールから海を走りそして川を遡行してくる発動機船によって行われた。
農産物などは、「リヤカー」で村内から集荷所や船泊まで運ばれ、そこから、発動機船によってコロールまで運ばれた。コロールからも日常の必需物資も逆のルートで輸送されていたであろう。日本からの手紙も、発動機船に乗ってやってきた。
その後、「ホンドーロ」と呼ばれる、軍用トラックも走れる主道路が村内外に建設されたが、これは、南洋庁が作成した設計図に基づき、一定の距離の部分が各戸に割り当てられ、共同作業
で各戸が、崖を切り開き低地を埋めて建設した。

荒れ野と化した開拓農地
(5)開拓村への探訪
現在、開拓農民が労苦の末に開墾した畑は、大半が、2メートル近い丈の萱の荒れ野に化してしまっていて、数昔前に日本人が耕していたなどとは、指摘されなければ分からない。このような荒れ野に足を踏み入れると、枯草が積もっていて足が30センチはずぶずぶと埋まりこみ、前進するのは、展望も効かず沼地を行くより困難である。そうした場所のそばに、よく見れば、雨水を川に流すために掘られたとみられる深さ7,80センチメートルの溝があったりする。農家があったと思われる場所は、ジャングル化し蔦が絡んだ小木・高木などで覆われてしまっている。家自体は、材木でできていたから、影も形も残っていない。家を建てるために地面を平らにし余った土を寄せた跡やわずかな石組みなどから、分かる程度である。
![]() 枠だけ残ったフライパン |
![]() 崩れかかったドラム缶 |
![]() 深い井戸 |
そのような場所に、錆で真ん中の抜けたフライパン、錆で腐食したドラム缶・バケツ・トタンの小片、半分埋まったキリンビールビンなどがあったりする。コンクリ-ト枠で囲われた、深い井戸も残っていた。
ホンドーロの跡も、ここに道路があったと指摘されなければ、ただのジャングルであるが、そうした道路沿いの崖に防空壕があったり、戦争末期のガソリン欠乏から放棄された軍用トラックの残骸があったりする。川に掛かっていたはずの生活用の橋や船泊の跡は全くない。
川を上り下りする発動機船は、大動脈を流れる血液のように重要であったに違いない。その発動機船の残骸が、清水村のジャングルの中を流れるガルドック川の下流の波止場らしき場所の湿地帯に、ひっそりと残っていた。また、朝日村のガルミスカン川には、パイナップル缶詰工場址から下流100メートルあたりの生い茂ったマングローブのそばに、当時の船の残骸が沈んでいた。
(6)終わりに
開拓村の人々の、厳しくも平穏な生活ができたのは、開拓が始まってから太平洋戦争が激化するまでの20年にも満たない短い期間であった。戦後70年経って、日本人たちがたくましく生きた証しが、微かながら、確かに、ここに存在する。しかし、それが、今、ジャングルの中に埋没し朽ち果て、現実にも人々の記憶からも消えてなくなろうとしている。パラオ・バベルダオブ島における日本人開拓農家の生活がさらに明らかにされ記録に残されることを願う。
文献
1. 南洋群島・旧日本委任統治領における開拓の実態と現状の研究 バベルダオブ島の農 地開拓 飯田晶子、大沢啓志、石川幹子
2.南洋群島農業植民一類型 自作農経営の成立とその実態 伊藤俊夫
3.パラオの農産業 小深田貞雄
4.昭和14年版南洋群島要覧(復刻版 能仲文夫著「南洋紀行 赤道を背にして」付録)
5.パラオ戦従軍記-亡き妻に語る-椙山勝行
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