インタビューシリーズ~活躍する帰国留学生~ 第36回ダニー・ヒガさん

令和8年9月18日
Danny Higa Picture

概要

・日系三世のダニー・ヒガさん(64)は、私費で日本に3年間留学し、YMCAスポーツ専門学校を1984年に卒業。
・日本語未習得で渡日するも友人の支援で習得。日本で培った礼節と勤勉さが、その後の仕事観の基盤に。
・家業・免税店・サイパン勤務を経て、1996年以降は国務省で儀典長まで歴任し、2022年に退職。
・和食や演歌(「北国の春」)に深い愛着。京都の猛吹雪や野尻湖でのセーリングなど留学中の体験も印象的。
・若者にアジア(日本・台湾)留学と外国語習得を推奨。観光産業での大きな強みになると強調。

記事全文

ダニー・ヒガさん(64歳)は、私費留学生として日本へ留学した経歴があります。父は日系二世の「シンチャン」と周囲から呼ばれるヒガ・シゲイさん、母はパラオ人のヨスコ・イシムス・ヒガさんです。父方の祖父、ヒガ・シンジさんは、沖縄県名護市の出身です。
 
1970年代初頭、沖縄から多くの観光客がパラオを訪れ、ダニーさんの父親は、コロール州ミューンズの自宅で、彼らをよく夕食会でもてなしていました。日本からの来客と交流するなかで、ダニーさんは日本で学ぶことに強い関心を抱くようになりました。
 
ダニーさんはミューンズ小学校を卒業後、ガッパン州イボバンにあるベラウ・モデクゲイ学校で4年間の高校課程を修了し、日本人のスポンサーの支援を受けて日本に3年間留学しました。最初の1年間は日本語を学び、その後、YMCAスポーツ専門学校で2年間スポーツ教育を専攻し、1984年に卒業しました。
 
父は日本語を話すことができましたが、ダニーさん自身は渡日前に日本語をまったく知りませんでした。日本人の友人たちの手助けもあり、日本語の習得は比較的早かった一方、漢字の読み書きには大変苦労したといいます。ひらがなや漢字、その意味を覚えるため、単語カードを使って繰り返し学習したことをよく覚えていると彼は振り返っています。
 
日本での学業と生活経験は、ダニーさん自身の強い勤労精神の基盤になったと語っています。また、礼儀や正しい挨拶の大切さをはじめとする自身の規律や価値観は、父親を通じて受けた日本文化の影響と、日本で外国人留学生として過ごした経験によって培われたものだとしています。
 
留学中は千葉、横浜をはじめ各地を訪れました。なかでも印象に残っているのは、学校のスキー旅行で訪れた京都での体験です。猛吹雪と厳しい寒さに見舞われ、手足の感覚がなくなるほど過酷で、「生きているのか死んでいるのか分からないほどだった」と振り返ります。また、長野県の野尻湖にも訪れ、セーリングに参加しました。氷のように冷たい水に何度も落ちてしまい、それもまた忘れられない経験となりました。
 
食に関しては日本料理全般をこよなく愛し、ひとつに絞れないと話します。その原点は家庭にあり、父が日頃から伝統的な日本食を家族に振る舞っていたことにあります。父のシゲイさんは日本統治時代、コロールの旧ロイヤルホテル(現在のNECOペイレスの位置)でシェフを務めており、日本滞在中もパラオで食べていたのと同じような、心温まる料理を味わっているように感じたといいます。
 
また、ダニーさんは日本の伝統的な音楽ジャンルである演歌にも強い愛着を持っています。千昌夫の「北国の春」は特にお気に入りの一曲で、音楽家であり音楽プロデューサーでもあるダニーさんは、1970年代後半にイボバンの学校行事で歌ったところ、パラオで瞬く間に人気を集めました。さらに、パラオの歌手マルソル・タダオさんをフィーチャーした「Reggae Nimenai(レゲエ・ニメナイ)」というアルバムをプロデュースし、このアルバムは完売して追加制作が必要になるほどの反響を得ました。
 
日本のYMCAを卒業後、ダニーさんはパラオに戻り、家業の菓子店で父シゲイさんを手伝い、パン職人として働きました。父の逝去後、店は弟のトシヲ「トシ」さんが引き継いでいます。
 
家業をしばらく手伝った後、ダニーさんはパラオ・パシフィック・リゾート内の免税店に応募しました。当時、パラオの観光業は急速に拡大しており、日本人観光客が最大のマーケットでした。彼は日本語が堪能であったため、即座に採用されました。
 
数年間免税店で勤務後、1980年代半ばにサイパンへ移住することを決めました。サイパンに住む弟の近くで暮らすことを主な理由に、サイパン空港の免税店へ転勤し、管理職への昇進に必要な経験を積むことを目指しました。
 
サイパン空港の免税店で勤務中に日本人実業家のアキヤマ・ユキシゲさんと出会いました。アキヤマさんは富裕層旅行者向けに、リムジンやコルベットなど米国製の高級車を提供する米国の運送サービス会社Nito Saipan(ニトー・サイパン)を経営していました。二人は兄弟のように親しくなり、ダニーさんはアキヤマさんのもとで、1996年にパラオへ戻るまでの10年間勤務していました。
 
パラオに帰国後、彼は国務省に儀典担当官として入省しました。以後26年間にわたる公務に従事し、最終的に儀典長を務め、2022年に退職しました。
 
ダニーさんは、日本で学ぶ機会を得られたことを大変嬉しく思っており、より多くのパラオの学生が奨学金制度を活用できるよう願っています。また、観光業は今なおパラオ経済を支える重要な柱であり、外国語に堪能であることは、この分野において大きな強みになると強調しました。
 
振り返ってみると、日本へ渡るまでは日本語が話せなかったものの、日本での学びを終えた後は、日本語力を直接活かせる職に就くことができました。語学習得と国際教育が長期的なキャリアの可能性を広げることの好例だと述べています。