インタビューシリーズ~活躍する帰国留学生~ 第27回エシロン・ニライウェットさん
令和7年8月29日

エシロン・ニライウェットさんは、国費留学の専修課程に応募し、東京スクール・オブ・ビジネスでビジネスを学びました。
ニライウェットさんの曾祖父が日本人であったことから、幼少期より日本に強い関心を抱いていました。ガラスマオ小学校卒業後にパラオ高校へ進学し、在学中には「JENESYSキズナ」プログラムの参加者に選ばれ、日本での短期研修に参加する機会を得ました。その後、日本語教師のユリ・キシガワ先生から国費留学制度についての話を聞いたニライウェットさんは関心を持ち、高校卒業後に日本への留学を決意しました。
2014年から始まった留学生活では日本に到着して早々、あるハプニングが起こったそうです。空港で会う予定だった担当者とうまく意思疎通ができず、その場で落ち合うことができませんでした。そこで、自力で新宿駅までのバスチケットを購入し、到着後、近くにあった交番に駆け込み、目的地までの行き方を尋ねました。すると、交番の方がタクシーを手配してくれたおかげで、無事に目的地である在京パラオ大使館にたどり着くことができました。このときの経験について、「この出来事が、日本で生活していくうえでの勇気と自信に繋がりました」と語っています。
ニライウェットさんは、日本語授業を受けている時、「パラオ語にある日本語由来の単語、例えばウサギ(うさぎ)や、ボインキョー(望遠鏡)が出てきて、その単語を知っていた私にクラスメイトたちは驚いていました」と笑いながら話してくれました。漢字を覚えて書けるようになるまでには大変な苦労があったものの、地道に学習を続けた結果、留学中に日本語検定N2級を取得することができました。つらいときもありましたが、「忍耐と決意」を胸に抱き、この留学を乗り越えたそうです。また、ニライウェットさんは、学校の授業を一度もずる休みしたことがありません。「日本での生活を始めたばかりの頃はホームシックに悩まされたこともありましたが、新しい環境に慣れようと夢中になっていたため、気がついたらホームシックであったことを忘れてしまっていました」と語ります。一度パラオに帰国した際にも再びホームシックになったものの、日本に戻るとすぐに学校生活が忙しくなり、寂しさはどこかに消えていったそうです。
旅好きなニライウェットさんは、留学中に13の都道府県を訪れました。特に印象に残っているのは、北海道の雪まつりだそうです。日本食では天そばが好物で、温泉も好んで行っていました。さらにカラオケも好きで、特に演歌を好み、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」、「能登半島」や「天城越え」などをよく歌っていたそうです。これは日本語の正しい発音を身につけるための良い学習法にもなったそうです。
さらなる日本での学びを深めたいと考えたニライウェットさんは、留学を終えた後、パラオ短期大学に進学し、日本語の学習を続けながら、日本で学ぶ機会を探していました。2018年9月、同短期大学と琉球大学での交換留学プログラムが実施されることになり、その試験に合格したニライウェットさんは、琉球大学に編入。主に観光マーケティングに焦点を当てた経営管理学を専攻し、パラオをよく知るご縁のあった教授の支えを受けながら、2022年に学士号を取得しました。
ニライウェットさんの初めての就職先は、日本企業のクリーンテクノロジー株式会社でした。最初の半年間は大阪で勤務し、次の半年間は熊本で勤務、その後、アメリカ合衆国アリゾナ州に新設されたフェニックス支店の立ち上げに携わり、同地で勤務しました。その後はクリーンテック株式会社に勤務し、現在はアメリカ合衆国に拠点を持つ日本企業のカンケンテクノ株式会社にて、フィールドエンジニアとして働いています。
インタビューの最後に、ニライウェットさんに現在の日本とパラオの関係について伺いました。「日本とパラオの間には深い歴史的な繋がりがあり、現在もその関係は強固であると感じています。パラオには多くの日系パラオ人が暮らしています。その中には、日本に長らく会えていない親戚がいる方もおり、会いたくてもビザの申請など入国のハードルが高いため、なかなか会うことができない人もいます。そうした人々のためにも、将来的にパラオもビザ免除国の対象になれば嬉しいです」と、率直な思いを語ってくださいました。
ニライウェットさんの曾祖父が日本人であったことから、幼少期より日本に強い関心を抱いていました。ガラスマオ小学校卒業後にパラオ高校へ進学し、在学中には「JENESYSキズナ」プログラムの参加者に選ばれ、日本での短期研修に参加する機会を得ました。その後、日本語教師のユリ・キシガワ先生から国費留学制度についての話を聞いたニライウェットさんは関心を持ち、高校卒業後に日本への留学を決意しました。
2014年から始まった留学生活では日本に到着して早々、あるハプニングが起こったそうです。空港で会う予定だった担当者とうまく意思疎通ができず、その場で落ち合うことができませんでした。そこで、自力で新宿駅までのバスチケットを購入し、到着後、近くにあった交番に駆け込み、目的地までの行き方を尋ねました。すると、交番の方がタクシーを手配してくれたおかげで、無事に目的地である在京パラオ大使館にたどり着くことができました。このときの経験について、「この出来事が、日本で生活していくうえでの勇気と自信に繋がりました」と語っています。
ニライウェットさんは、日本語授業を受けている時、「パラオ語にある日本語由来の単語、例えばウサギ(うさぎ)や、ボインキョー(望遠鏡)が出てきて、その単語を知っていた私にクラスメイトたちは驚いていました」と笑いながら話してくれました。漢字を覚えて書けるようになるまでには大変な苦労があったものの、地道に学習を続けた結果、留学中に日本語検定N2級を取得することができました。つらいときもありましたが、「忍耐と決意」を胸に抱き、この留学を乗り越えたそうです。また、ニライウェットさんは、学校の授業を一度もずる休みしたことがありません。「日本での生活を始めたばかりの頃はホームシックに悩まされたこともありましたが、新しい環境に慣れようと夢中になっていたため、気がついたらホームシックであったことを忘れてしまっていました」と語ります。一度パラオに帰国した際にも再びホームシックになったものの、日本に戻るとすぐに学校生活が忙しくなり、寂しさはどこかに消えていったそうです。
旅好きなニライウェットさんは、留学中に13の都道府県を訪れました。特に印象に残っているのは、北海道の雪まつりだそうです。日本食では天そばが好物で、温泉も好んで行っていました。さらにカラオケも好きで、特に演歌を好み、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」、「能登半島」や「天城越え」などをよく歌っていたそうです。これは日本語の正しい発音を身につけるための良い学習法にもなったそうです。
さらなる日本での学びを深めたいと考えたニライウェットさんは、留学を終えた後、パラオ短期大学に進学し、日本語の学習を続けながら、日本で学ぶ機会を探していました。2018年9月、同短期大学と琉球大学での交換留学プログラムが実施されることになり、その試験に合格したニライウェットさんは、琉球大学に編入。主に観光マーケティングに焦点を当てた経営管理学を専攻し、パラオをよく知るご縁のあった教授の支えを受けながら、2022年に学士号を取得しました。
ニライウェットさんの初めての就職先は、日本企業のクリーンテクノロジー株式会社でした。最初の半年間は大阪で勤務し、次の半年間は熊本で勤務、その後、アメリカ合衆国アリゾナ州に新設されたフェニックス支店の立ち上げに携わり、同地で勤務しました。その後はクリーンテック株式会社に勤務し、現在はアメリカ合衆国に拠点を持つ日本企業のカンケンテクノ株式会社にて、フィールドエンジニアとして働いています。
インタビューの最後に、ニライウェットさんに現在の日本とパラオの関係について伺いました。「日本とパラオの間には深い歴史的な繋がりがあり、現在もその関係は強固であると感じています。パラオには多くの日系パラオ人が暮らしています。その中には、日本に長らく会えていない親戚がいる方もおり、会いたくてもビザの申請など入国のハードルが高いため、なかなか会うことができない人もいます。そうした人々のためにも、将来的にパラオもビザ免除国の対象になれば嬉しいです」と、率直な思いを語ってくださいました。