インタビューシリーズ~活躍する帰国留学生~ 第25回 シンティア・チンさん

令和7年6月23日
    
 
シンティア・チンさんは、国費留学の専修課程に応募し、読売理工医療福祉専門学校で建築学を学びました。
 
シンティアさんの父は中華系パラオ人、母は日本語学校に通っていたことがあり、ご両親ともに日本語を話すことができます。家庭では、うわさ話をするときに日本語が使われていたため、シンティアさんは幼い頃から「日本語を理解できるようになりたい」と思うようになったそうです。その思いは変わらず、日本映画を観る際には、日本語が分かるパラオ人女性のそばに行き、たびたび通訳を頼んでいたほどでした。
 
1984年から1987年にかけて、シンティアさんは国費留学生として日本に滞在しました。「それ以前にも何度か日本を訪れたことはありましたが、留学は旅行とは違い、時にはホームシックになることもありました。でも、友人の支えや、卒業して家族に認めてもらいたいという気持ち、自分の目標に集中することで乗り越えることができました」と語ります。漢和辞典で文字を探すために画数を一つ一つ数えた経験が、特に印象に残っているそうです。携帯電話が普及していなかった当時、先生方は生徒たちに気を配り、校外でもポケベルで連絡が取れるようにしていたそうです。「授業中はいつもクラスメートのタカハシ ノブコさんと一緒で、長崎県の平和公園に行ったり、学校の先生方と長野県へスキーに行ったりしたことも、忘れられない思い出です」と話してくれました。シンティアさんは日本食が大好きで、特に日本に到着して初めて食べた「とんかつ」は、今でもお気に入りだそうです。日本で最も好きな場所は「ディズニーランド」とのこと。また、20歳のときには振袖を着て成人式に出席することができたことも、特別な思い出となっています。中でも特に印象に残っている出来事は、初めて雪を見た時のことです。「最初は燃えたカスや灰だと思いました。雪だと分かったときには本当に驚いて、友人とはしゃぎながら雪の中を走り回りました」と、当時の興奮を振り返りました。
 
留学を終えると、パラオに戻り、西松建設のもと、無償資金協力プロジェクトに携わりました。その後、自身のエンジニアとしての知識を活かしてパラオの天然資源を守りたいという思いが芽生え、ハワイ大学で環境学を中心とした人文地理学を学びました。現在は、ハワイのカピオラニ・コミュニティ・カレッジ、財務部門の事務室でマネージャーを務め、財政的に困難な状況にある7,000人以上の学生を支援しています。シンティアさんは、学生がそれぞれの道を歩み、成功を収めた時に大きなやりがいを感じるそうです。
 
日本への留学から40年が経った今、シンティアさんはこう語ります。「過去に戻れるなら、もう一度、同じことをしたい。それほど、人生でかけがえのない時間を過ごすことができました」
 
2025年3月には再び日本を訪れ、ディズニーランドやかつて暮らしていた街を再訪しました。当時住んでいたアパートはすでになく、街の様子も大きく変わっていましたが、その変化もまた興味深く感じたそうです。さらに、少しだけ日本語を思い出すことができたそうです。
 
シンティアさんは、国費留学という貴重な機会を与えてくれたことに心から感謝の意を表しています。「日本は常に私の心の中にいます。今はハワイに住んでいて、日パラオ関係に直接貢献できているわけではないですが、現在の職場で留学生の支援をすることで、少しでも恩返しができればと思っています。また、パラオに対して数々の無償資金協力をしてくださったことに深く感謝しています。日本とパラオの関係は、強い絆で結ばれていると信じています。
現在の我々のリーダーが先導して、今後もこの関係が若い世代に受け継がれていくことを願っています」と、思いを語ってくださいました。