インタビューシリーズ~活躍する帰国留学生~ 第24回 ヨキチ・モリさん
令和7年5月27日

現在60歳のユキチ・モリさんは、国費留学の専修課程に応募して、工学院工学高等専門学校で2年間、電子工学を学びました。
モリさんは日系パラオ人の三世代目にあたり、名前は祖父から受け継いだものだそうです。日本が身近な環境で育ったこと、そして家族の後押しもあり、エマウス高校を卒業後の1983年、日本への留学を決意しました。
奨学金は、東京での生活を支えるうえで大きな助けとなりました。留学中には、友人と一緒に、あるいは一人で観光に出かけることもありました。原宿の賑やかな雰囲気が特に印象に残っており、鎌倉では高徳院の大仏を見ることができるため、特にお気に入りの場所だったそうです。日常的に友人と日本語で会話を重ねるうちに、自然と話せるようになっていきました。一方で、漢字の習得には苦労し、多くの時間をかけて勉強を重ねた結果、ようやく理解できるようになったとのことです。
卒業後、モリさんは日本語を生かして多岐にわたる仕事に就きました。パラオ短期大学の日本語教師、日本からパラオへの車輌輸送を担う販売代理店での勤務、フリーランスの通訳としての活動に加え、キャリアの大半を下院議会スタッフとして過ごし、国の発展のために尽力しました。「下院スタッフだった頃、森喜朗元内閣総理大臣がパラオを訪問された際に握手を交わす機会がありました」と、当時の思い出を嬉しそうに語ってくださいました。
モリさんは、日本での留学経験が自分にとって大きな財産になったと語ります。日本で「時間管理の重要性と、誠実であることの大切さ」を学び、その考え方が自身の人格形成に大きな影響を与えたといいます。
日パラオ関係については、「今後さらに強固なものとなることを願っています。日本とパラオの間には、言語、食文化、音楽など、多くの共通点があります。しかし、日本とパラオの歴史をよく知る世代は高齢化が進み、少なくなっています。だからこそ、私たち帰国留学生会のような存在が主体となって、次世代へとその関係を継承していく必要があると思います」と語ってくださいました。
モリさんは日系パラオ人の三世代目にあたり、名前は祖父から受け継いだものだそうです。日本が身近な環境で育ったこと、そして家族の後押しもあり、エマウス高校を卒業後の1983年、日本への留学を決意しました。
奨学金は、東京での生活を支えるうえで大きな助けとなりました。留学中には、友人と一緒に、あるいは一人で観光に出かけることもありました。原宿の賑やかな雰囲気が特に印象に残っており、鎌倉では高徳院の大仏を見ることができるため、特にお気に入りの場所だったそうです。日常的に友人と日本語で会話を重ねるうちに、自然と話せるようになっていきました。一方で、漢字の習得には苦労し、多くの時間をかけて勉強を重ねた結果、ようやく理解できるようになったとのことです。
卒業後、モリさんは日本語を生かして多岐にわたる仕事に就きました。パラオ短期大学の日本語教師、日本からパラオへの車輌輸送を担う販売代理店での勤務、フリーランスの通訳としての活動に加え、キャリアの大半を下院議会スタッフとして過ごし、国の発展のために尽力しました。「下院スタッフだった頃、森喜朗元内閣総理大臣がパラオを訪問された際に握手を交わす機会がありました」と、当時の思い出を嬉しそうに語ってくださいました。
モリさんは、日本での留学経験が自分にとって大きな財産になったと語ります。日本で「時間管理の重要性と、誠実であることの大切さ」を学び、その考え方が自身の人格形成に大きな影響を与えたといいます。
日パラオ関係については、「今後さらに強固なものとなることを願っています。日本とパラオの間には、言語、食文化、音楽など、多くの共通点があります。しかし、日本とパラオの歴史をよく知る世代は高齢化が進み、少なくなっています。だからこそ、私たち帰国留学生会のような存在が主体となって、次世代へとその関係を継承していく必要があると思います」と語ってくださいました。