パラオの16州紹介シリーズ :2.ハトホベイ州

令和7年5月23日

ハトホベイ州の紹介

~ハトホベイ州に残る史跡~


~フアナ・ネスター氏インタビュー: ハトホベイ州の歴史と伝統文化保全~


 
2025年1月29日、ハトホベイ州の前知事であるフアナ・ネスター氏にインタビューを行いました。彼女は、1954年に生まれ、現在71歳になります。
 
フアナ氏は、第二次世界大戦時代のハトホベイの様子について、母親や村の年配者たちから聞いた話についてお話してくださいました。また、ハトホベイの女性団体とともに、伝統文化を保全するために取り組んでいる活動や努力についても共有してくださいました。
 
第二次世界大戦中、ハトホベイには多くの日本人兵が住んでいました。中でも、日本兵のリーダーである西村隊長は、他の日本兵たちとは別の大きな家に住んでいました。日本兵たちは、島中に防空壕、軍事施設や食料庫を建設し、それには隊長が使用するオフィスも含まれていました。
 
当時、村人たちは、ハトホベイに駐留している日本兵のために、「カン」と呼ばれる食事を作って届けていたそうです。戦争が始まった当初は食料も十分にありましたが、米軍機がやってきて、日本兵用の食料庫に爆弾を落として破壊した後は、状況が一変しました。日本兵たちは食料不足に陥り、生き残るために現地のとかげや草なども食べるようになり、地元の村人たちから食料やタロ畑のタロを盗む者も出てきました。しかし、村人が隊長に報告すると、それらの兵士は厳しく罰せられました。
 
米軍機は主に日本兵の食料庫などの施設を狙い爆撃しましたが、日本兵隊長のオフィスの建物だけは決して爆撃しなかったそうです。フアナ氏や他の村人たちは、そのことについて現在でも不思議に思っています。
 
1945年頃になると、ハトホベイに駐留していた日本兵たちは島を去っていきました。
そして戦後、フアナ氏の家族は、日本政府より金銭的な戦後補償を受け取りました。最初の小切手を受け取ったのは彼女が小学校6年生の時で、9年生になるまで続いたと記憶しています。母親は、それがハトホベイに対する戦争の被害への補償であると説明してくださったそうです。
 
戦争の話が終わると、続いてフアナ氏は、現在のハトホベイで実施されている伝統保全活動についてお話してくださいました。彼女とハトホベイ女性団体が、さまざまな助成金を通じて資金を得て、村の若者たちに漁業、織物、タロイモの収穫、料理といった伝統的な技術を教えるワークショップを開催しているそうです。
 
フアナ氏とその女性団体は、1960年代以来開催されていないといわれる伝統的な祝祭であるホホ祭りの復活にも取り組んでいます。「ホホ祭りを復活させることは、ハトホベイのコミュニティー全体が伝統的な文化のルーツとなるものと再び繋がり、これらの伝統が今後長きに渡って維持されるようになるための重要なステップだ」とお話してくださいました。
 
フアナ氏は、最後に、「ハトホベイに日本兵が駐留していた頃の戦争の歴史やハトホベイ独自の伝統文化について、将来の世代に引き継いでいくことは大変重要であり、このインタビューがその一翼を担うようであれば嬉しい」とお話してくださいました。

~イサウロ・アンドリュー氏インタビュー:ハトホベイ州の歴史~


 
2025年2月10日、ハトホベイ州の老で、ハトホベイの歴史に詳しいといわれているイサウロ・アンドリュー氏にインタビューを行いました。彼は、1943年、第二次世界大戦終結の2年前に生まれ、現在82歳になります。
 
イサウロ氏は、第二次世界大戦前、戦争中、および戦争直後のことは、まだ幼かったのであまり記憶がなく、子供の頃、両親や年長の村人たちから聞いた話についてお話してくださいました。
 
第二次世界大戦前の日本統治時代には、南洋貿易会社(「南貿(ナンボウ)」としてイサウロ氏が記憶している)から、主に、リン鉱石を採掘するために、多くの日本人労働者がハトホベイに駐在していたと聞いています。その日本人労働者たちは、ハトホベイとその周辺の島において、リン鉱石の採掘以外にも、なまこの加工、鰹節の製造、さらにはウミガメの甲羅収集と加工の事業もしていたそうです。当時、ハトホベイの村人たちもリン鉱石を集めたり運んだりして、作業のお手伝いをしていました。リン鉱石を船まで運ぶために、日本人たちは、まず島の港の前に桟橋を建設し、桟橋近くまで船が通ってこられるように、大きな水路もつくりました。それは、地元の漁師たちにとっても有益で、潮流の心配をせずに出航できるようになり、漁がより容易になったそうです。
 
イサウロ氏は、かつて島中にリン鉱石の山が散在していたことについて思い出しました。リン鉱石の掘削作業は広範囲におよび、掘った場所は、クレーターのようにへこんでそこに水が溜まり、自然のプールのようになっていたそうです。それらの場所では、土壌の劣化により、その後農業ができなくなってしまいました。
 
第二次世界大戦がはじまり、日本兵がハトホベイに到着すると、駐在していたほとんどの日本人労働者は島を去りました。戦争中、地元の人々は、日本兵から敵の船や航空機を見張るよう頼まれましたそうです。日本兵は、島に多くの防空壕を建設しましたが、木材や石の他、簡易な素材でつくられていたため、時間の経過とともにほとんどが劣化してしまいました。現在でも残っている防空壕はわずかしかないそうです。