インタビューシリーズ~活躍する帰国留学生~ 第8回 ブライアン・メライレイさん
令和6年1月29日
ブライアン・メライレイさんは、日本政府(文部科学省)奨学金制度を利用して日本に留学した帰国留学生です。1988年から1991年に、東京の文化外国語専門学校で6ヶ月間日本語を学んだ後、読売理工学院で2年間土木工学を学びました。
メライレイさんが高校を卒業した当時は、奨学金の選択肢が限られていたため、進学先を決めるのに苦労したといいます。学校探しで悩んでいたある日、ハワイ大学からの合格通知が届きました。そしてその1週間後には、日本大使館から日本政府奨学金の専修学校プログラムに合格したとの知らせが届きました。メライレイさんは1988年10月、自身の経済状況を考慮し、奨学金を利用して日本留学に行くことを決めました。そして、その選択は間違っていなかったと今も信じています。
メライレイさんは、日本留学前にパラオの高校で日本語を勉強していたので、日本での生活にはすぐに馴染むことができました。しかし、日本とパラオ間での家族とのコミュニケーションは今ほど簡単ではなかったため、ホームシックになることもあったといいます。ただ、幸運なことに、父親の友人だったホッタさんという日本人に出会いました。ホッタさんは、メライレイさんたちパラオ人留学生を千葉県浦安市のアパートに無料で住まわせてくれました。メライレイさんたちは、ゴミ拾いなどの地域活動に参加するうちに、浦安の小さなコミュニティでよく知られた存在になっていったそうです。
メライレイさんは忙しい留学生活を送っていましたが、その中でも日本での生活を楽しもうと努力しました。公園を訪れたり、原宿でバンドのライブを聴いたり、日本食を食べるのが大好きで、中でも卵付きの牛丼が大好物でした。そして、南三陸や石垣、大阪など、日本各地を旅行することもできました。
1991年に日本への留学を終えたとき、メライレイさんは安堵感と達成感を覚えたといいます。その後パラオに戻ったメライレイさんは、パラオでプロジェクトを実施していた西松建設で働くことになりました。パラオでのプロジェクトをすべて終えた後、1992年末にはグアムの上下水道プロジェクトに派遣されました。
グアムにいる間に、当時のクニオ・ナカムラ大統領から、パラオに戻ってパラオ政府で働かないかと誘いを受けたメライレイさんは、パラオの資源産業省(現在の公共基盤・産業・商業省)内の公共事業局の求人に応募しました。しかし、当時の資源産業大臣はメライレイさんの父親でした。大臣であるメライレイさんの父は、息子が同じ省の下で働くのは利害の対立に直結すると考え、当初はメライレイさんを採用しないつもりでしたが、当時のナカムラ大統領の意向で、メライレイさんは1993年に公共事業局の首都移転プロジェクト部門でジュニア・フィールド・エンジニアとして働くことになりました。その後、2007年から2013年まで同部門のマネージャーを務めた後、公共事業局の局長に就任し、現在に至っています。
メライレイさんは、日本で学んだことが自分のキャリアに役立っていると語りました。時間を守ることや、人との交渉術を学んだそうです。メライレイさんは、日本とパラオの外交関係の一層の発展を支持し、今後も両国が共に繁栄していくことを願っていると語りました。