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二国間関係

◆日・パラオ関係史

1.日本統治時代

 1914年に第一次大戦が勃発すると、日本はドイツ領だったパラオを占領し、1920年に国際連盟の委任統治領として正式に施政下に置いた。1922の民政移管に伴い日本は、コロールにミクロネシア委任統治地域全体を統括する南洋庁の本庁を設置し、パラオは南洋群島の政治的中心地となった。日本は殖産興業と住民教育に重点を置き、リン鉱石採掘、ボーキサイト採掘、農業開拓、漁業育成等、開発を積極的に行った。また住民児童に公学校入学を義務づけ、日本語と皇民化の教育を行った。日本からの移民も多く、1938年には15,700人の日本人が居住し、パラオ人人口(6,400人)を凌いだ。このため、パラオは日本の影響を強く受け、混血や日本語残存度もミクロネシア地域の中ではもっとも高いと言われる。また現在でも余暇に花札を楽しんだり、老人たちが流暢な日本語を話すのは、こうした日本統治時代の名残である。

  



2.太平洋戦争

 ミクロネシア地域は第二次大戦で日米間の激戦地となった。パラオではペリリュー島及びアンガウル島でアメリカ軍による上陸作戦が行われ、日米双方に多大な戦死者が出た。両島およびコロールにいたパラオ人および日本人民間人は、バベルダオブ島に疎開して生活をした。パラオ人の間では「決死隊」が組織され、また「挺身隊員」としてニューギニア戦線に赴く者もいた。補給の途絶により、多くの日本軍が駐留していたパラオでは深刻な食糧不足に陥り、度重なる空襲を受けるなど、多くの日本・パラオの現地住民が精神的、物質的苦痛を被った。


3.ミクロネシア協定

 戦後日本人は強制送還され、パラオはアメリカの統治下に入った。その後はこうした旧住民、遺族などを中心に民間ベースでの交流が続いていた。他方、戦争による住民被害に対しては、日米両国で1969年に「太平洋諸島信託統治地域に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(略称:ミクロネシア協定)」を締結、これに基づいて日米両国はミクロネシアに対し各々5百万米ドル(当時のレートで18億円)の拠出を行った。


4.国家関係の樹立と強化

 パラオが1994年10月1日に独立すると、日本は直ちにパラオを国家承認し、11月2日には外交関係を結んだ。1995年1月にはパラオ議会の招きにより三塚博衆議院議員(日・パラオ友好議員連盟会長)がパラオを訪問し、同議会で外国人初の演説を行った。パラオからも要人がたびたび来日しており、2000年4月に宮崎で行われた太平洋島サミットでは、ナカムラ大統領が森総理と共同議長を務めるなど、両国は極めて緊密な関係にある。2001年1月のレメンゲサウ大統領の就任式には、衛藤征士郎外務副大臣が特派大使として出席、レメンゲサウ大統領も同年4月に訪日し、8月の再訪時には小泉総理ら要人と会談、その後も多数訪日している。1999年1月にパラオ大使館が東京に、同年2月に日本大使館がコロールに開館している。2004年1月、橋本龍太郎元総理大臣がパラオを訪問し、アジア太平洋環境開発フォーラム(APFED)の議長を務めるとともに、レメンゲサウ大統領と会談を行った。2004年11月に国交樹立10周年を迎えた。




日本統治時代の日本人集落