二国間関係
◆日本統治時代の日本人集落(清水村他)
1914年から31年間にわたり、現在のパラオ共和国は日本に統治されていました。1922年にはコロールに南洋庁が置かれ、本格的な統治が開始され、1938年には1万5千人を超える日本人がパラオに居住していたと言われています。
当時多くの日本人入植者が居住したコロール島やバベルダオブ島では、場所によっては現在もその当時の住居や建物の跡が残っています。ここでは、現在確認できる清水村等の日本人集落の現状についてご紹介致します。
(※以下の場所の中には、現在はジャングルの中に埋没しており、現地ガイドの案内の元、徒歩で1時間程度かかる山中にあるものがあります。また現在は私有地となっているものも多く、立ち入りには所有者の許可が必要な所もあります。)
1. 清水村(現:ネサール州~マルキョク州)
清水村は、現在のバベルダオブ島東部に位置するネサール州から、現首都のあるマルキョク州にかけて広がった集落で、1933年に第一回入植が行われたと言われています。当時は100戸以上の住宅があり、国民学校や商店、公会堂などの他、パイナップル缶詰工場やデンプン工場がありました。当時の「工場地帯」であったようです。
現在は、国民学校跡(土台部分及び校庭広場のみ)、工場の一部、防空壕などが確認できます。パイナップルやデンプンの原料となるタピオカは、バベルダオブ島全体で育成された物がこちらに運ばれ、ここで缶詰加工されたそうです。

(道なき道を歩くこと45分)

(清水村の水タンク跡)

(小学校の基礎部分の残骸)

(現在は倒れてしまった小学校校門)

(デンプン工場跡)

(デンプン工場のボイラー)

(パイナップル工場跡)

(パイナップル工場跡)
2. ガラツマオ村(現:ガラスマオ州)
ガラツマオ村は、現在の州名と同じ名前で呼ばれており、当時は日本人が200人から250人住んでいたと言われています。ガラツマオ村は、付近でボーキサイトが産出されたため、九州の三池炭鉱の社員やそのご家族が住んでいたそうです。採掘されたボーキサイトは、ロープウェイを使って波止場まで運搬され、そこから日本へ向けて出航しました。現在でも、そのロープウェイの土台や、波止場の姿を見ることができます。またこちらにも国民学校がありましたが、その校舎へ続く階段と門柱が残っており、現在パラオ人小学生が通っているガラスマオ小学校にそのまま継承されています。

(ロープウェイ機械室跡)

(波止場の残骸)

(ロープウェイ基礎部分)

(小学校に続く階段)

(現・ガラスマオ小学校)
3. 瑞穂村(現:ガッパン州)
瑞穂村は、バベルダオブ島西部のアイメリーク州周辺に広がっていた集落で、当時100人近い日本人が住んでいたと言われています。こちらは現在私有地となっており、ほとんど昔の面影を残していませんが、学校の門の一部や、国際無線のアンテナ跡を見ることができます。
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